「楽しい」を追求する~ジバスクラム随一の人たらし・原健太

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原健太、中津川市坂下の生まれ。学生生活を終えて彼が最初に描いた夢は、ドラマ『ビューティフルライフ』の木村拓哉さんのような美容師でした。

比較的お堅めのメンバーが集まる中で、異色とも言える経歴の持ち主である彼が、その道のりの中で培ってきたもの、吸収しさらに発展させてきたものがジバスクラムにどんな色を加えているのか、じっくりとご紹介したいと思います。
ジバスクラム恵那スタッフ紹介6人目、今回は原健太の登場です。

とにかく太陽が似合う

■感性の赴くままに動き続けた20代
彼の経歴を全て詳しく書くと、おそらくこの記事の長さはこれまでのスタッフ紹介の倍以上になることでしょう。(そうでなくても長い)
野球にバスケ、サッカーなどのスポーツはもちろん、美術系や書道も得意だったという学生時代を経て彼が渡り歩いたのは、名古屋のサロンでの美容師の仕事、次は『ビーチボーイズ』に憧れ、マイク真木さんを探してあてもなく車で出発した先の伊豆の海の家での仕事、東京麻布十番でのトップスタイリストのアシスタントの仕事、これまた急に思いついて出かけた沖縄での仕事、そして名古屋に戻ってからのフレアバーテンダーの仕事。
中学からバンド活動もしていたそうで、人呼んで「ジバスクラムの3B」。本人いわく「思いつくことはひととおりやった」と言える20代だったそうです。

この期間の彼の動きは全て突発的であり、ノープラン。感性だけで突き進んでいました。元来の彼の芸術性や行動力をもってなし得たことだと、話を聞いていて強く感じました。
そして彼が動いた先で出会った人たちは、彼のそんな勢いにいったんは戸惑いながらも、彼を受け入れ、育ててきました。周りの人を自分の作る流れに巻き込み、環境の全てを自分の糧に変える力を、原は持っていました。
美容師の仕事を覚えながら先輩に教えてもらった人付き合いのあり方は、彼の人生の一つの大切な要素となりました。海の家ではサーフィンと料理を覚え、トップスタイリストの元での修行の日々には、日本の中心で次々と生み出される文化を目の当たりにしました。フレアバーテンダーの仕事を通じて得たエンターテイメント性、どうやったら人を楽しませられるかという視点は、その後の全ての動きに影響するものでした。

■「普通のことがやりたい」耐える自分を目指した30代
「ひととおりやった」原が次に欲したことは「普通のこと」でした。
これまであらゆることに挑戦してきた反面、長い期間腰を据えて何かに取り組んだことがなかった原は、今後は目標を持ち、逃げることなく一つのことと向き合おうと考えたのでした。
その手段として彼が挙げたのはまさかの「結婚」。そして自分が家庭を持つのにふさわしい人間であるためにと定職を求め、恵那川上屋に就職しました。
アルバイトからスタートした彼は、その器用さとこれまで培った力を生かして、即自分のポジション作りを始めました。と同時にどうやったら今よりも仕事が円滑に進むのかを、その類まれなる洞察力で観察し続けました。
結果人と人との繋がりをもっと強くするべきとの結論に至り、彼は積極的に仲間と関わり、人付き合いの輪を広げていきました。横の繋がりが出来た職場は風通しが急激に良くなり、その動きの中心を担っていた彼は入社4年で工場長を任される立場になっていました。

工場長としての原はしっかり結果を残しました。マーケティング担当とタッグを組み、一番売れる商品に重点を置いた稼働で前年比180%の売上を記録。
マーケティングだけではなくどうやったら工場が最大限生産性を上げられるかを考え、そのために現場を知り、工場で働く人を知り、商品を知る努力を怠りませんでした。
この結果を受けて次なる部署の改革を任された彼は、またも状況を一変。さらには仕事そのものだけでなく、若いスタッフを集めての新プロジェクトを立ち上げ、社員総出のお祭のあり方を根底から覆したこともありました。
着々と川上屋での彼の「土俵」が築かれ、自分の目指す「先」を考え始めた頃、彼にとっての大きな出会いがありました。
現在「株式会社ハラカラ」で共同代表を務める柄澤一樹との出会いでした。

恵那峡レイクサイドマルシェの際の記念写真
原は前列中央黒のフード

■からっちと一緒ならなんでもやりたい~安定を上回る情熱
工場長時代にパートナーと呼べる人とタッグを組んだことで、自分のアイディアだけではなく、誰かと力を合わせて物事を成し遂げることの喜びを味わった原。
以降信頼できるパートナーを知らず知らずのうちに追い求めていました。
そこに現れたのが柄澤。彼とプロジェクトを進めるうち、自分にはないものを持ち、かつ大きな夢に向かって緻密に動くその人柄に惹かれました。まるで運命の出会いをしたかのように、原の心中では「からっち(柄澤)と何か一緒にやりたい」という想いがどんどん膨れ上がっていきました。
2019年3月、柄澤と原と、そして同じ志を持つ若者たちとが集まって開催した「恵那峡レイクサイドマルシェ」は大成功をおさめ、その後観光協会や市からもオファーが来るようになるぐらいの反響がありました。その時既に独立して夢に向かって進んでいた柄澤は、個人事業主として企画やプロモーションの仕事を始めていました。

そんな柄澤の活動を陰で支えながらも、原は恵那川上屋での仕事を続けていました。20代の頃、彼には何一つ怖いものなどなく、不安になることも自信を持てなくなることもありませんでした。でも30代後半を迎えた原には、大切な家族がいました。二人の子どものために、初めて自分の感情を貫くことへの不安をおぼえたのです。

しかしそんな原の背中を押したのも、また子どもたちの存在でした。
日々成長していく子どもたちに対して「やりたいことを精一杯やってほしい」という想いを抱くたびに、「自分はやっているのだろうか」という疑問がついて回りました。「何もやっていないんじゃないか」「このまま朽ちていくのか」。
この想いが安定を捨てることへの怖さを上回ったその時、原は大きな一歩を踏み出しました。10年勤めた恵那川上屋を退職し、柄澤と共に起業したのです。

恵那神社にて柄澤と二人、決意の一枚

■初めて失った自信、そしてこれから
二人で立ち上げた会社の名前は「株式会社ハラカラ」。二人の名前から取ったのはもちろんですが、きょうだいという意味の「同胞(はらから)」という意味も含まれています。二人は志を同じくする仲間なのです。
2021年に入ってハラカラとしての活動を本格化させ、ジバスクラム恵那にも関わるようになった原は、柄澤と抱いた志を胸に、まったく新しい世界に飛び込みました。

しかしジバスクラム恵那に来てはじめて、原は自信を失いました。これまで身につけてきた自分の力は資格として明記できるものではなく、またビジネスに直結するものでもなく、これまでほぼ使わなかったためパソコンなどを使った業務も苦手で、彼は途方にくれました。
何をやればいいのか、自分に何ができるのか。柄澤ともなかなか顔を合わせない中2か月近く悩み苦しんだ末、彼は立ち上がりました。
分からないことだらけでも、とにかく事務所に通いました。人に会い、話を聞き、懐に飛び込み、視察があればついていってあらゆることを吸収しました。
次第にジバスクラム恵那は原にとって居心地の良い場所となり、徐々に彼は自分の力を生かせるところを見出しはじめました。

現在原が関わっているのはAeru関連の営業やグランピング事業、そしてハラカラとしての多岐にわたる業務。自分の考えを反映できる場もあれば、サポートに徹する場も、定められた枠の中でしか動けない場もあります。
これまでのように感情の赴くままに動けないことが苦しいと感じることもあるそうですが、その時こそ原が本領を発揮すべき時。
彼の身体に、心に刻まれたあらゆる「楽しさ」を実現するためにどうすればいいか、今後彼はその全てをかけて考えていくでしょう。

そして原は、誰よりも「人たらし」であると思います。老若男女問わず様々な人が、気づけばその魅力に惹かれている。
これまで多くの人を巻き込んで、その都度力を倍増させてきた原は、これから先もジバスクラムの面々はもちろん、出会う様々な人を魅了し、突き進んでいきます。10年先、原がいったいどんなことをやり遂げているのか、私たち仲間も楽しみでなりません。

原自身が最も尊敬するのは実のお父様だそう。今自分が幸せなのはお父様のおかげで、自分もかっこいい親父になりたいと原は言っていました。
自身の想いを貫くために、そして全ての原動力である子どもたちのために、
これからもガンバレ原健太!!

※次回は中村みはるが登場します。お楽しみに!